最近は少し肌寒くなってきましたね。こんにちは。ゆうです。
秋真っ只中、いかがお過ごしでしょうか。秋といえば、「運動の秋」「読書の秋」など色々あると思いますが、「恋愛の秋」ですね!私は「食欲の秋」ですが。
ということで、今回は百人一首に出てくる和歌の中で、恋の歌に厳選して紹介していきたいと思います。百人一首とは藤原定家が百人の人物から一人一首ずつ歌を選び、百首をまとめたものです。どうしても勅命や幕府の命では偏った和歌集が作られますが、百人一首に関しては藤原定家目線で選ばれ、当時の政治状況に関係なく選んだものとされています。
(個人的な解釈や想像を多く含んでいます)
恋愛の秋にオススメな7首
ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは
この歌は平安時代一の和歌の天才、イケメン、天皇家の血筋、というバブル時代の3高を超えるミスターパーフェクト、在原業平の和歌です。百人一首の17番に収められています。
この歌は紅葉の描かれた屏風を見て、かつての恋人である藤原高子(たかいこ)へ詠んだ歌と言われています。
普通に読めば『神が生きた時代にも聞いたことが無い。紅葉によりくくり染めされたような、唐紅に染まった竜田川の美しさは。』と秋の情景を詠んだ歌に見えます。唐紅の色彩表現と竜田川の情景がスーッと目の前に浮かんでくるような素晴らしい歌です。
しかし、歌壇の主役である在原業平ともあろう男が、今で言う元カノに対して、ただ単に屏風の画を読んだだけというのも僕には考えられません。
『神話の時代にも聞いたことのないような、唐紅に染まった竜田川の美しさ』を自分の恋心を例えたり、二人で紅葉を眺めた時の思い出を含ませてみたり、またまた唐紅の色彩感覚で過去の記憶を刺激したりしたのではないかと、僕は考えています。
私が一番好きな歌です。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
この歌は百人一首42番の歌で、清少納言の父にあたる清原元輔の歌です。清原元輔は梨壺の5人の一人で、花壇でもかなり地位のある人物でした。また、清原元輔の家系は清原深養父(ふかやぶ)・清原元輔・清少納言と名だたる歌人を輩出した和歌の名家です。
「約束したのにね。互いに袖を涙に濡らしながら、末の松山を波が越えることのないように、互いに気持ちが離れることはないと。」という意味です。
百人一首には珍しい、男性の失恋を詠んだ歌です。
現代風に言うと、ずっと一緒だと約束していた恋人と、遠距離になって浮気されてしまったようなイメージでしょうか。女心は秋の空とはよく言ったものですね。
末の松山は絶対に波が越えないと言われていた場所であることから、絶対起こらないことの例えとしてよく使われます。今で言うところの「地球が爆発しない限り」とか、そういうニュアンスです。元輔の教訓を活かすならば、恋人に「地球が爆発しない限り、嫌いになったりしないよ!」と言われたとしても、その言葉に胡坐をかいてはいけないということですね。
忘れ路の 行く末までは 難ければ 今日限りの 命かもねむ
この歌は百人一首54番にあたる儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の歌です。
『「いつまでも貴女への愛は変わらない」とあなたは言うけれど、先のことはわからない。だからあなたが「愛している」といってくれている今、私は死にたい』という歌です。
女性の情熱と、将来への不安が入り交じった複雑な気持ちを表現した歌です。まるで「失楽園」や「愛の流刑地」を彷彿させるフレーズですね。幸せの絶頂期に死んでしまいたいと思う気持ちは、現代の女性にもあるのでしょうかね?
現代と比べると、平安時代は生活費の依存が著しかったので、ふられるくらいなら死んでしまいたいと、本当に思っていたのかもしれませんね。この歌も私は大好きです。というかちょっと言われてみたい気がします。こんなに愛されたら、男冥利に尽きますよね。まあ実際は永く一緒にいたいですが。
かくとだに えやは息吹の さしも草 さしもしらじら 燃る想いを
この歌は百人一首51番にあたる藤原実方の歌です。
在原業平を平安時代前期の天才イケメンプレイボーイとするならば、藤原実方は後期の天才イケメンプレイボーイにあたります。それほど多くの恋をしてきた人物で、源氏物語のモデルの一人と言われるほどの美男子でした。清少納言の恋人だったという説もあります。
この歌は倒置法や序詞、掛詞など、ありとあらゆる技法が入り交じった歌で、難解に見えますが、内容的には片思いの男性の気持ちをストレートに詠んだ歌です。
簡単に説明しますと、『この想いをあなたに伝えることはできません。あなたもこれほどまでとは知らないでしょう。私の燃えるような思いを。』という意味です。
このラブレターを平安後期の天才イケメンプレイボーイから貰った女性はどんなに素敵だったのかが気になりますね。
筑波嶺の 峯より落つる 男女の川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる
この歌は百人一首13番にあたる陽成院の歌です。
『筑波山へ降った雨の一滴が積もり積もって男女川になるように、私の想いも積もりに積もって今は淵のように深くなっています。』という意味です。
この歌は小さな気持ちからどんどん積み重ねて大きくなっていく恋愛の真髄を、山に降る雨と川に例えています。とてもうまい歌です。陽成院は若くして天皇の位につきましたが、暴君というレッテルを貼られ、すぐに退位させられてしまいます。この歌は女性と一夜を共に過ごした後に送る、後朝(きぬぎぬ)の文として送ったといわれています。
現在でも、初めて会ったときはなんとも思っていなかった異性に対し、何度も会っているうちに、気持ちが少しずつ積もっていき、いつの間にか深い淵になっていること、よくありますよね。淵になったら最後、底が見えずにどんどん溺れていってしまうことがあるのでご注意を!
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
この歌は百人一首50番にあたる藤原義孝の歌です。
『私の命はあなたのためなら捨ててもいいと思っていました。しかし、逢瀬を重ねた今となっては、できるだけあなたと一緒に過ごすために、長生きしたいと思うようになりました』という意味です。
この歌も後朝の歌です。女性と初めて一夜を共にした帰りに詠んだとされています。若者のストレートな感情表現が魅力的です。藤原義孝は美男で、人柄もよく、和歌の才能もあったのですが、病気で21歳の若さでこの世を去ってしまいました。そう、本当に死んでしまったのです。
この気持ちはとても共感できますよね。一緒にいれるのであれば、死んでもいいと思っていたのに、実際に会って、デートを重ねていくうちに、できるだけ永く一緒にいたいと思ってしまう恋心をストレートに詠んだ歌です。いい意味での人間のうちに秘めた欲深さを表現しています。この感覚を味わうとどんどん深みにはまっていってしまいますが。
玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
この歌は百人一首89番の歌で、式子内親王(しょくしないしんのう)の歌です。
『私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。このまま生きながらえても、内に秘めた恋に耐え忍ぶことができなくなってしまいそうだから。』という意味です。
密やかな恋心を歌った歌で、女性の内に秘めた激しい情熱が感じられる歌です。「絶えるならば絶えてしまえ」という表現が僕はとても好きです。特に公にできない恋愛をしたことがある人だと分かるかもしれませんが、一人で溜め込むのは結構しんどいですよね。「もういっそ誰かに話してしまって、バレてしまえばいいのに」と辛さから何度も逃げたくなることもあります。相手に迷惑をかけるという感情があって、結局我慢することになりますが、いっそ死んでしまいたいと思うこともあります。恋愛においての感情は今も昔も変わらないのですね。
いかがでしたか?
今回は恋の歌を7首紹介してみました。
百人一首は学校で習うと思いますが、当時はそんなに興味を持てないかもしれません。しかし、年と経験を重ね、後から詠んでみると意外と面白いのです。特に恋の歌は自分の経験と重なることがあるので。また、時代や背景について調べながら詠んでみると、とても心にしみたり、心を打たれるものもあります。
また機会があれば他の和歌も紹介します!それではこのへんで。